近代製鉄の父・大島高任

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大島高任は、初めて洋式高炉の技術移植を見事に成し遂げ、わが国の近代鉄産業の礎となった先駆者です。

文政9年(1826)5月11日、盛岡藩の侍医・周意(かねおき)の嫡子として盛岡に生まれました。17歳から江戸や長崎に出て蘭学を修めるとともに、西洋の兵法・砲術を体得し、採鉱・冶金術等の学校を修めました。その後水戸藩の徳川斉昭のもとで那珂湊に反射炉を築造し、大砲鋳造に成功しましたが、従来の砂鉄銑を原料としていては性能の優れた西洋の大砲には太刀打ちできませんでした。そこで鉄鉱石による良質銑が必要となったのです。

高任は、盛岡藩大橋(釜石市)に洋式高炉を建設し、安政4年12月1日にわが国で初めてこの鉄鉱石製錬による連続出銑操業を成功に収めました。この他、橋野・佐比内・栗林・砂子渡にも高任の指導で10座の高炉が築かれました。その後帰藩して、蘭学・英語・医学・物理・化学・兵術・砲術・物産を学ぶ日新堂を創設しました。

さらに北海道で日本人初による鉱山の火薬による採掘法に着手。新技術で小坂・阿仁・佐渡などの鉱山を開拓し、金・銀・銅の精錬にも画期的な成果を収めました。 また、わが国初めて抗師学校(専門学校)や工学寮(現東大工学部)の設置を進言して創設に携わりました。その他、西洋種苗によるワインの国産醸造販売の先駆など、その活躍は多方面に渡りました。明治23年(1890)には、推されて日本鉱業会の初代会長に就任。日本近代製鉄業の父と称されました。

明治34年(1901)3月29日、76歳で生涯に幕を下ろしました。

橋野高炉跡。わが国近代製鉄産業の曙の地を伝える文化遺産として、『国指定文化財』に指定されました。(昭和32年6月3日)
橋野高炉跡に建立された「日本最古溶鉱炉記念碑」(昭和32年)